ホーム > 大学別「入試に出た天声人語」 > 白川静さんと「漢字の迷宮」
「この絵のような文字で書いてみたい」。日本語で詩を書くアメリカ人として知られるアーサー・ビナードさんは卒論研究で漢字と出会い、90年に来日した▼「田んぼに雨が降ったら雷も落ちる」。学び始めたころは、こんな一文を頭の中で繰り返し、「雷」という字を覚えたという。5年前には「中原中也賞」を受賞した▼漢字と仲良くできたからこそだろうが、雷はまだしも、蕾(つぼみ)や霙(みぞれ)、靄(もや)ともなれば、日本人でも読み書きがあやしくなりそうだ。多くの外国人にとっては、複雑な漢字の群れは「迷宮」のように見えるのではないか▼その迷宮の世界を一生の仕事とし、漢字の研究を続けた白川静さんが、96歳で亡くなった。「絵のような文字」について述べている。「漢字自体が、線の芸術として、はじめから完成されておるんです」▼「漢字は人という字をたった二画で描く……もう少し寝かせた姿勢では死んだ人になって、つっかい棒をつけると久しいという字になる。これを箱の中に入れると柩(
)になる……一点一画で、世界が変わるぐらいの表現ができるのです」(『回思九十年』平凡社)。語り口には、漢字への愛着というより愛がこもっている▼70歳を過ぎてから、「字統」「字訓」「字通」の「字書三部作」を仕上げ、一昨年には文化勲章を受けた。「国語力の根底は漢字にあり、漢字を復権しなければ、東洋は復権しない」。そんな信念でつくりあげた三部作だった。漢字という巨大な迷宮が備え持つ美しさと奥の深さを、いつまでも伝え続けてゆくだろう。