ホーム > 大ヒ熊教授の実力テスト > クマでもわかる!小論文講座 > 子どもたちがよりよい人間関係を構築するために果たすべき学校の役割について
『朝日新聞』06年11月8日付 わたしの教育再生:3「深谷野亜さん 表面的に付き合う子ら、人間関係学べる学校に」より「最近の子どもは、人間関係をつくるのが下手だ」とよく言われるけど、以前と比べると「下手」の質が、明らかに変わってきている。明るく、友達に囲まれているようにみえても、空虚な人間関係しか築けていないケースが目立つ。
例えば、失恋とか家族の不幸といった非常に悲しい体験をした子がいたとする。普段と様子が違って、いつも一緒にいる友達が心配しても、落ち込んでいる理由を打ち明けようとしない。
話しているうちに自分が泣いてしまう。「泣くところを見られたくないから、話さない」と言う。泣くことが「自分の弱みをみせること」だと思っている。
涙を見せることで関係が密になることもあるし、恥ずかしいことでもないよと言うと、「先生は仲良しって思っているかもしれないけど、友達じゃないんだよ」。本人は「ただ、一緒にいるだけ」としか思っていない。表面的な付き合いはいいのに、一歩踏み込むと固い壁がある。小中学校から大学まで、そういう子が結構多い。
集団で人間関係を学ぶ機会が減っているのが大きな理由ではないか。
以前は、部活動や学園祭の準備などを通じて、嫌でも人間関係を学ぶことができた。ところが今は、そうした時間が授業のため削られている。ゆとり教育で休みになった土日は、家でのんびり。みんなでなにかを成し遂げるという機会がないから、ペースの遅い子とは付き合わず、切り捨てることもできてしまう。
集団でもまれないので、どう言えば、相手に自分の意図を理解してもらえるかわからない。相手がなにを求めているかもわからないが、表面的な付き合いはいいので、問題は起こさない。傲慢(ごうまん)でもなんでもなく、自然体で自己チュー。それでいて傷つきやすいので、壁をつくって内面に人を寄せ付けない。
都内の私立大で新入生を調査したら、5割の学生が「自分は傷つきやすいタイプだ」と回答した。傷つきやすい人が半分いて、いい人間関係がつくれるわけがない。
教育改革の議論では、学ぶ内容や方法など、勉強に関する事柄が中心にある。しかし、人間関係を学ぶ場が乏しいいま、その機能を果たせるのは学校しかない。例えば、小学校低学年では、学校が従来の勉強を教わる場から人間関係を学ぶ場へと大きくシフトしてもいいのではないだろうか。
もちろん、学力をおろそかにしていい、ということではない。小学校の低学年では、教科を国語や算数などに絞る。ほかの時間はいかに人や友達と付き合うかといった人間関係のつくりかたを学ばせる。集団で遊べるような場を提供し、先生がリーダーシップをとるのではなく、自然発生的に遊び、話し、けんかもできるようにする。
勉強ができたり、心の教育で他人の痛みがわかったりするのも大切だが、それ以上に、傷つきやすくない子をいかに育てるかが、大切だ。集団の中でもまれ、互いに傷つけることがあっても、タフになっていく。
地域社会で都市化が進み、家庭では子どもが個室に自分のテレビと、1人でいる環境が広がるなか、人間関係を学ぶ場としての学校の存在は意味を増している。